「井出佐三」と「日田重太郎翁」 

こんにちは いかがお過ごしですか
魚稲の国淡路島の「高田酒店」高田さとみです。


 
「酒蔵のある街あるき」会場マップ出来ましたよ





千年一酒造のある仮屋地区を1kmほど
のんびりと楽しんで頂けます。




当日はお楽しみの仕掛け満載 。



「井出佐三」と「日田重太郎翁」



海賊とよばれた男」の本が第10回本屋大賞受賞。
それをきっかけに縁の深い淡路市で、
「酒蔵のある街あるき」をします。


なぜ?って
本のモデルは「出光佐三」出光興産の創業者ですが
出光佐三」を語るには不可欠な人物「日田重太郎翁」なくては語れないのです。


超高速ご説明いたします。
出光佐三」は1885年、福岡県の宗像市に生まれた。
福岡商業高校を3位の成績で卒業し神戸高商(神戸大学)に入学したエリート。
にもかかわらず、卒業後、丁稚奉公の道を選んだ。



そんな一風変わった「出光佐三」に目を付けていた人物がいた。
息子の家庭教師を頼んだことが縁で知り合った。
淡路島の資産家の養子である9歳年上の「日田重太郎翁」である。



最高学府を出ながら、神戸の機械油など扱う従業員3人の「酒井商会」の丁稚から始めた。
そんな「日田重太郎翁」は「出光佐三」に関心を持ち続ける。
出光佐三」25歳。実家の稼業が傾き、独立を決意したものの、資金の当ては無かった。
「日田重太郎」は出資を申し出たのである。



その額は6千円。現在の8千万から9千万円という大金であった。
しかも、「この金は貸すのではなく、もらってくれ」
さらに、「日田重太郎」は資金を提供する際、以下の3つの条件を出す。
一、従業員を家族と思い、仲良く仕事をしてほしい。
二、自分の主義主張を最後まで貫いてほしい。
三、私がカネを出したことを人に言うな。


しかし、「日田重太郎」からもらった資金は、3年間で底をつく。
「日田重太郎翁」は、
「3年で駄目なら5年、5年で駄目なら10年と、なぜ頑張らない。
幸い、神戸にまだ私の家は残っている。それを売れば当面の資金には困らんだろう」と支え続けた。


1956年には、ついに日本一の製油所を建設する。
その「日田重太郎翁」のお屋敷と「出光興産淡路日田記念寮」は現存しているんですよ
(参考:偉人に学ぶ)

今の「文楽」の基礎を確立した「植村文楽軒」もココなんですよ。
次回につづく・・・・お楽しみに!!